≪思想≫ さだまさし「キーウから遠く離れて」

 

投稿者:グッビオのオオカミさん

 

「さだまさし」が語るウクライナ侵攻「何もできないから僕は歌う」 曲が翻訳され静かな反響

https://dot.asahi.com/articles/-/217095?page=1

 

【キーウから遠く離れて 歌詞 さだまさし ふりがな付 - うたてん】

https://utaten.com/lyric/mi22053005/

 

さだまさし氏が2022年6月に作った歌

「キーウから遠く離れて」

が、ウクライナ語に翻訳され話題を呼んでいる様子です。

 

『ウクライナのクリミア半島のすぐ北にある町がロシア軍に占拠されました。その街の様子がスマートフォンで中継され、日本のテレビニュースでも流された。その中で、あるウクライナのおばちゃんが、銃を持った若いロシア兵に詰め寄り、怒鳴っているシーンがありました。「ヒマワリの種をポケットに入れておきなさい。あんたが死んだら、地面にその花が咲くだろう。それを私が見てやるから」と言って。その言葉にも衝撃を受けました。この曲は、ロシア兵に語りかけている歌なんです。彼らが聞いてくれれば、と思います』

 

さだまさし氏はロシア兵に丸腰で抗議したおばあちゃんをモデルに歌を作ったと言います。

 

現在の長期化したロシア軍の侵略と、ウクライナの防衛戦は妥協の無い戦いになっています。

 

しかしながら、本来はウクライナの側には侵略的に意図は無く、ロシアによる一方的な侵略によるものでした。

 

さだまさし氏の歌にはロシアの侵略以前のウクライナ人の穏やかな暮らしと、それを守る静かな決意を感じました。

また、侵略に手を染めたロシアの蛮行と、加担しているロシア兵を責めます。

 

この歌の題材となった丸腰でロシア兵に抗議したウクライナのおばあちゃんの勇気に私は感銘を受けると同時に、「その時ら自分なら何が出来るか?」

と思わずにはいられませんでした。 

 

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

 

さだまさしさんの歌の内容、そしてそれを発表しようとした経緯も考えさせられます。

 

 

「平和主義」という言葉がありますが、基本的にほとんど人が「平和主義者」だと思います。

しかしその中には「戦争を無くすために降伏しろ」と言ってしまう「変な平和主義者」が存在します。

これが反戦平和の「イデオロギー」です。

 

 

そのイデオロギーの反対にあるのは「感情」だと思います。

「大切な人と故郷に銃を構える人間を、俺は許さない。」

この感情こそが「ナショナリズム」の基盤だと考えます。

 

 

ただ感情というのは、時代によって、あるいは自分の状況によって、変化していくものだと実感します。

「これは一体、どのような感情を持つのが正しいのだろうか?」

それを逐一検討するために、私は世界のゴー宣ファンサイトで、ゴー宣ファンの皆様と一緒に「思想」をやっています。 


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コメント: 11
  • #11

    牛乳寒天 (月曜日, 18 3月 2024 20:32)

    さだまさしさん、見た目の温厚さからは想像つかないような熱い反骨心が伝わります。歌、すごく元気をもらえました。励みをいただきつつ、たとえ無力でも自分なりの責務を果たしたいです。

  • #10

    千本通り (月曜日, 18 3月 2024 12:01)

    左翼、今ではリベラリズムを奉じる人に該当する法哲学者の井上達夫先生ですが、自著の中で西部邁先生のことを書かれている。井上先生は東大助手時代、次のポストとして千葉大学法経学部助教授が決まっていたのだが、移るまでの間一時的に教養学部に所属した。
    教養学部の共有スペースに楕円形のテーブルがあって、昼休みになると職員がそこで弁当やら買ってきたものを出して食事をするのだが、そこでの雑談がとても為になったと書いている。話し手の中心は西部先生で、西部先生とほかの教授、助教授、講師の先生とのざっくばらんな雑談が聞いているだけで面白かったと。西部先生って単なる保守の枠組みではとらえられない人だったんだなと。

  • #9

    新米派 (月曜日, 18 3月 2024 04:48)

    さだまさしさん本人の思想は詳しく存じ上げませんが、インタビュー後編での「自分の命が大切なように、敵の命も大切に」など、反戦歌を唄う方なのだろうと拝察します。
    「挑戦的平和論」という言葉もありますが、反戦を志向する考えの中には、お花畑論として却下が相当なものもあれば論考を応用するために参照するべきものもあります。そして状況によっては、却下されていたお花畑論の中にもまた汲み取るべき着想が見出されるかもしれません。
    さださんの歌がウクライナで受け入れられているのも、何か汲み取るべきものが見出されたからなのでしょう。

    自分の理解では、平和論にせよ戦争論にせよ、それが思想なのかイデオロギーなのかは相対的なものだと思っています。思想は柔軟なものでイデオロギーは硬直したものと言っても、柔軟過ぎてその時々の感情や気分で移ろう曖昧なものは思想とは言い難いでしょう。また認識の可謬性を自覚する以上、一切の反証を受け付けない硬直した思想ではすぐに陳腐化するでしょうが、一方で思想の根本の部分は堅実でなければなりません。
    要するに我々は、肯定語の「柔軟」「堅実」に当て嵌まれば「思想」と肯定的に規定し、否定語の「曖昧」「硬直」に当て嵌まれば「イデオロギー」と否定的に規定しているわけですが、柔軟と曖昧、堅実と硬直はどう違うのでしょうか。
    好きな人が言っているなら「柔軟」「堅実」で、嫌いな人が言っているなら「曖昧」「硬直」と分類するべきでしょうか。実態としてはそんなものなのかも知れませんが、少なくとも建前としてはそうではないと誰もが言います。

    保守思想家の西部邁さんは、自由・平等・博愛が過ぎると放縦・画一・偽善に舞い上がってしまうこと、かと言ってその反対の規制・格差・競合が過ぎると抑圧・差別・酷薄に転び堕ちること、それゆえ両端の間で秩序・公正・節度という平衡を保たなければならないことを主張していました。
    こうした平衡論に準えると、柔軟と堅実との間で平衡を保とうとする営為がすなわち思想するということになるでしょうか。ただしそのためには、柔軟と曖昧、堅実と硬直とをそれぞれ分かつ論拠がどこにあるのかを模索し続け、説明する責務が生じます。
    反戦平和論からも妥当な論考を貪欲に摂取し続けなければ、我々が現在肯定している安全保障論もまたイデオロギーと化してしまうでしょう。

  • #8

    はな丸 (日曜日, 17 3月 2024 22:35)

    折しも昨日のdojoに関して大須賀さんが、思想とイデオロギーについての考察をブログに書いておられますね。まだタイムシフト見れてませんが、カレーさんのおっしゃることも含めて考えながら見てみたいと思います。

  • #7

    瑞佳 (日曜日, 17 3月 2024 21:18)

    中島みゆきも今年のコンサートで最後の1個前の曲に「ひまわり」という90年代の曲を選んでいました。そういう意味だったのか、と気づかされました。

  • #6

    枯れ尾花 (日曜日, 17 3月 2024 20:13)

    ある事象に対して湧き起こる感情は、その者が持つ常識によると思います。

    日本の歴史により醸成された常識を持つ方々が多いこのサイトに引寄せられるのは私もそんな常識を持てているからなのかな?そう思うとなんか嬉しい♪

  • #5

    惜春 (日曜日, 17 3月 2024 19:29)

    さだまさしさんは、戦争を題材にした歌を結構書かれてますね、どれも結構深い歌が多いです。

  • #4

    パワーホール (日曜日, 17 3月 2024 19:19)

    歌のモデルとなったおばあさんの態度が毅然としておりかっこいです。
    長渕剛も「遥かなるアフガン」という歌を作りましたよね。歌や文化の持つ強さを感じます。

  • #3

    千本通り (日曜日, 17 3月 2024 16:16)

    実はウクライナの多くの地域で撤退しない市民が多く暮らしている。砲弾やミサイルが飛んでくるのに家から離れない老婆。その母を世話するために残る娘や息子。彼らのために車で食料や水を運ぶボランティアの市民。
    老婆に危険なのになぜ離れないのかきくと「ここで生まれて育ち家族も送り出した。だからここで死にたい」と。人はいつかは死ななければならない。だったら知らぬ土地で不自由に生きるより、思い出の残る自分ちで死にたいという気持ちは非常によくわかる。爆弾?ミサイル? それで死んだって運が悪かったということさ。

    結局食料・水を運ぶボランティアがこれ以上は危険で運べないというところで説得して撤退するのだが、協力するボランティアも凄い。徴兵や戦火を逃れるために国外に逃げる国民もいるだろうが、残った国民はそれなりにみんな覚悟を決めているように思える。

  • #2

    ひとかけら (日曜日, 17 3月 2024 15:54)

    反戦平和イデオロギーでは悪意を持った外国勢力が攻めてきた時に平和を守る事は出来ません。平和を保守するための責任が国民に課せられているのが民主主義だと思います。

  • #1

    おおみや (日曜日, 17 3月 2024 14:36)

    ウクライナのおばあちゃんの映像とよしりん先生の描写は私にもくっきりと焼き付いております。
    最近は南部オデーサへの攻撃ニュースが立て続けに有り、同僚のファミリーが昨年5月まで交流・お世話していた同地の家族さんについても気になる日々です。
    少なくともその様な状態には無い遠い日本、実生活で感情を制御(というよりも出し入れ)する事を自分なりに磨きつつ実行の日々、「これは一体、どの様な感情を持つのが正しいのだろうか?」は当サイトならではの見事さを感じました。